(05-003)

ネクスト・ソサエティ ― 歴史が見たことのない未来がはじまる

ネクスト・ソサエティ ― 歴史が見たことのない未来がはじまる

初版が2002年5月で、内容は1996〜2002年の間に雑誌等に掲載されたものなので、3〜9年経過した今となってはちょっと古い本だ。ただ、当時ドラッカーが予想していた世界について、現状を考えながら読んでみたいと思った。


もう既に陳腐化しつつある部分もあったものの、旧態依然とした日本の政治経済の大部分には、まだ彼の提言は生かされていない。多くの官僚やビジネスマンが読んだであろうこの本、結局皆読みっぱなしで終わっているのか、それとも静かに静かに水面下で意識の改革が進んでいるのか。ドラッカーは「日本を軽く見ることはできない。一夜にして一八〇度転換すると言う信じられない能力をもっている」と、本書内で何度か言っている。
その能力について。多くの日本人は現状への疑問や不満を心中に溜め込み、その解決方法をある程度同じ方向で見つけていながら、積極的に自ら変化させようとする人が少なかったのではなかろうか。ところがその変化の明らかなきっかけを与えられると一八〇度転換することができてきていたのではないかと、私は思う。危惧するのは、私も含め、現在の日本人の多くは疑問や不満を持つものの、そこで思考が止まっているかもしれないことである。もしくは、解決の方向がばらばらの可能性があることである。つまり、現在の日本人には一八〇度転換の能力は無いかもしれないのだ。


面白いと思ったのは、次の日本についての仮説。「日本の政治家、官僚、経済界などの政策形成者にとっては、大事なのは経済よりも社会であって、先送りこそ合理的な戦略である」。
偶然成功したのかもしれない「先送り戦略」を有効な戦略と認識してしまい、現在山積している問題を当然の戦略として故意に先送りしようとしている可能性については、ただ恐ろしいと感じた。彼らは前例を重く評価しすぎる嫌いがあり、年金問題の先送り、財政問題の先送り、金融機関の延命措置など最近の先送り政策を見るにつけ、何でもかんでも先送りを選択しているのは明らかである。それが、彼らに能力が無い為に何も手を打てていないからなのか、それとも、故意に手を打っていないからなのかはっきりしない。あらゆる可能性を検討した上で、熟考した結果の先送りであるならば、その論理的説明が欲しいところである。論理的な説明が不可能ならば、唯の博打である。
しかし、そこに多くの人の思惑が介在し、如何に論理的説明を試みたとしても予想は不可能だと考え、多くの人がただ不満を言いながら選挙の投票にも行かず、あきらめているかに見える。

ひとはコミュニティを必要とする。建設的な目的をもつコミュニティが存在しないとき、破滅的で残酷なコミュニティが生まれる。・・・そこでは無法が幅をきかす。

今日われわれに課された課題は、都市社会にかつて一度も存在したことのないコミュニティを創造することである。それはかつてのコミュニティとは異なり、自由で任意のものでなければならない。それでいながら、都市社会に住む一人ひとりの人間に対し、自己実現し、貢献し、意味ある存在となりうる機会を与えるものでなければならない。

経済よりも社会に優先順位をおくことは、今後の日本にとって大切だと思う。事実、コミュニティの不在が起こす悲劇は日常化している。個人でできること、私でもできることは、身近な既存コミュニティへの参加とその拡張努力くらいなものだ。職場での仕事以外・町内・子供の通う幼稚園や学校・趣味のつながりである。程度にいくらかの差はあるものの、建設的な目的はそれぞれにある。しかし、残念ながらそれらは、ドラッカーの言う「都市社会にかつて一度も存在したことのないコミュニティ」ではない。その"新"コミュニティは、彼がその創造を提唱してから7年経過した現在でも模索中といったところだろう。Blogやソーシャルネットワーキング等はその試行錯誤の中で生まれつつある"新"コミュニティの原型かもしれない。そこには情報を道具と捉える人が比較的多い。